【公開シンポジウム 2016】 2016年12月17日 【Salon#244】
日本サッカーのルーツ校と言える筑波大学蹴球部が、2016 年 3 月に創部 120 周年を迎えました。高等師範~文理科大~東京教育大~筑波大と続くこのクラブの歴史は、日本サッカーのあゆみと深くかかわっています。
そこで今年度の公開シンポジウムでは、「日本サッカーのルーツを語ろう!-東京高等師範学校の足跡を中心に」と題して、日本へのサッカー導入期から学校スポーツとしての展開と発展、世界への挑戦を、大戦期までについて取り上げることとしました。日本サッカー殿堂入りされた偉大なジャーナリスト、賀川浩さんと牛木素吉郎さんに加え、筑波大学体育専門学群長でスポーツ史研究の第一人者である真田久さんにご登壇いただきました。
東京高師とともにその附属中学校もまた日本サッカーのルーツ校と言えるでしょう。1936 年のベルリン五輪代表チーム主将の竹内悌三さんのご長男、竹内宣之さんは、「二人の息子には附属でサッカーをさせるように」との父の遺言に沿って附属でサッカーに励んだことを紹介されています。同じく附属サッカー部 OB の後藤邦夫さんからも、1960 年代までの日本サッカーの様子が、当事者目線で紹介されています。後藤さんのお父さんは、戦前最後の東京高師蹴球部長、後藤岩夫さんです。
シンポジウムでは嘉納治五郎校長が、中国からの留学生を多く受け入れていたことが紹介されました。蹴球部にも戦前から多くの留学生が在籍していましたが、張希飛さんは戦後も様々な形で東京教育大学、筑波大学蹴球部を支援された方です。そのご子息がシンポジウムに参加され、自分の父親がなぜ日本に来たのか、どのような人生を歩んできたのかをまとめてくださいました。いずれも大変貴重な「歴史の証言」です。
1.日本へのサッカーの移入 スポーツジャーナリスト 牛木 素吉郎
2.嘉納校長時代の東京高師 筑波大学体育専門学群長 真田 久
3.東京高師の日本サッカーへの貢献 筑波大学附属高校 中塚 義実
4.戦前の日本サッカーの思い出 スポーツジャーナリスト 賀川 浩
5.日本サッカーの組織化と戦前の日本代表
6.戦後初の全日本選手権と前座試合(1946)
■主 催 : 特定非営利活動法人サロン 2002
■後 援 : 筑波大学蹴球部同窓会茗友サッカークラブ、(公社)横浜カントリーアンドアスレティッククラブ、(公財)日本サッカー協会、日本サッカーミュージアム、
■協 力 : 日本サッカー史研究会
■日 時 : 2016(平成 28)年 12 月 17 日(土) 14:00~17:00
■会 場 : 桐陰会館
■演 者
真田 久(筑波大学体育専門学群長/筑波大学オリンピック教育プラットフォーム事務局長)
賀川 浩(スポーツジャーナリスト/2010 年第 7 回日本サッカー殿堂入り)
牛木 素吉郎(スポーツジャーナリスト/2011 年第 8 回日本サッカー殿堂入り)
※中塚 義実(NPO 法人サロン 2002 理事長/茗友 SC 理事長/筑波大学附属高校)
※コーディネーターを兼ねる
【報告書】https://salon2002.net/src/pdf/symposium/2016_sympo.pdf